2010年8月12日木曜日

闘病と言う言葉 【追記あり】

昨晩Twitterで気になるやりとりを見たので、ここに思ったことを記しておく。特定の誰かをあげつらうつもりは無いので、一般論として取り扱う。そこで見た意見の主旨はこうである。
  • 闘病と言う言葉は不適切ではないか。闘いと言うからには勝敗がある。病に破れた者は敗者と言う事になる。
  • 例えば天寿を全うした者は、祝福される。一方病で亡くなったものは敗者である。しかし彼等に一体どれほどの差があると言うのか?
  • 故に闘病と言う表現は自分にとって不快である。こうした表現は好ましくないと考える。
概ね集約すればこんなところだと思う。省略したけど、背景には発言された方なりの経緯があり、体験があるのであろう。特定の言葉に否定的な見解を持つのは構わないし、意見表明もいいだろう。そこで「先生」に働きかけてマスコミに使わせないようにできないか、と言い出したところに非常にカチンときたが、それはまあ置いておく。


似たような意見は他でも目にしたことはある。

想像するに、様々な書籍やメディアの影響なのではないかと思う。特に「がんとは闘うな」的な表題の書籍は度々目にする。また職業柄沢山の人の死を目にし続けた医療の大家がそう語る時もある。日本人にとって比較的受け入れやすい仏教の悟り、一種の諦観のようでもあり、世間一般での認識に対して逆接的な表現であるからこそもっともらしく聞こえるときもある。


でもね。「がんとは闘わない」と言っていいのは、最初から自分の病について、そのまま受け入れることができる極一部の人だけだと思うよ。

俺の知る限り、女房の場合は間違いなく闘いだった。闘病だった。死闘だった。
意識は、子供三人残して死ねないと、そのまま何もせず死を受け入れてしまうことを是としない。
体は癌細胞という体内で発生した異物を拒否続けて、痛みというシグナルを発する。
医師も看護士も俺たち家族も皆、心身共に彼女が立ち向かえるようあらゆるサポートをする。
最前線の人だけじゃない。病院の受付のおばちゃん、警備員のおっちゃんは安心して治療を受けられる様に病院の運営の一助を担う。製薬会社は新薬の開発に集中するし、社会全体は病と闘う人達をサポートするための仕組みを整備する。
人知を尽くした総力戦だよ。

例えば小児がんで苦しむホスピスの子供に向かって、「君たちは天寿を全うした者と同じです。」なんて言えるか?子供のことを気がかりで治りたい一心で、検査のための毎週の採血に腕の血管がボロボロになっても愚痴一つ言わず黙々と耐え続ける者に「がんとの闘いは不要だよ」なんて言えるかね?

結果、受け入れざるを得ない事になるかもしれない。いびつな形での生存よりも、家族の看取りとともに旅立つ形を選ぶかもしれない。俺も看取った時、もう測る事のできない巨大な別れの悲しみと共に、わずかながら彼女がもう苦痛に悩まされることがなくなることへの感謝の気持ちも湧いてきたよ。

でもそれはあくまでも最後の話。

戦術的に正面から向き合わず、癌細胞を懐柔する作戦もいいだろう。共存というあり方もありだと思う。でもそれは個々の戦術であって、戦略ではない。

俺のTwitterでのアカウントは「VSCANCER」と言う。元々妻の闘病中、資料をまとめるメモのために付けたブログのタイトルだ。anti-cancerという言葉を後で知ったけども。闘病中は妻の闘いをサポートするためだったが、今は子供達の未来、俺の関わる全ての人達の今のために、と思ってそのまま付けた。長寿社会となった今、がん患者の増加は避けられない。しかしだからと言ってさっさと諦めるべきかと言えばそれは違う。



人を含めたあらゆる生き物は、己が生命を全うするために生き続ける。環境の変化に抗い続ける。ライオンに追われるウサギ。必死で逃げるのは彼等の闘い方だ。哺乳類の一部は暑くなったら汗をかく。それは環境を受け入れたんじゃない、体が対応したんだ。これも闘いだよ。おとなしそうに見える植物だって、隙あらば他の植物の上に伸び、より多くの日の光を得ようとする。結果下になった植物は衰弱して行くか別の戦略をとる。様々な植物の樹姿、樹形、葉の形は闘いを有利に進めるための武器だ。

生命は抗い続けることで、生命であることを全うし、それでこそ輝くのだと思う。その姿を「闘っている」という表現はなんらおかしいとは思わない。


そもそも闘いで敗者ができるという設定がおかしいのだ。勝ち負けじゃ無いんだよ。それを言えば、永遠の命を持たない個々の生き物は皆敗者だぜ。

それに、「病に破れた」という表現を使われたからと言って、即蔑まわれたと思うのは早計だ。天寿を全うした者、病に途中で倒れた者?途中って何?どちらも同じ。それはわかる。どっちがえらいとか、えらくないの問題じゃない。そんなの当たり前の話。貶める意図で使ってるのかね?その文脈では。それは「闘病」という言葉が悪いのではなくて、その様な意図で使う者がおかしいだけ。

そも、天寿と言ったって予め決まってる訳じゃない。他から天寿を全うして幸せに逝けたように見えても、誰がそこに至るまでの本人の葛藤を知ってると言うんだ?彼等だって抗い続けて、最終的に死を受け入れざるを得なかっただけなんだよ。「もうええやろ…」そう思っていいのは、ほんとに最後の時だけだ。


繰り返す。

本人が「闘病」という言葉を嫌ったり、使わないのは一切構わない。自分の中で病に破れたものを敗者と規定するのも勝手だ。だが、現に今、己の生を全うしようと抗う者、家族の命を助けたいと願い奔走する者に向かって、「病と闘うというのはおかしい」を言うな。ましてや個人的な不快感に便乗して言葉狩りしようとするな。(同じ様な違和感は「頑張る」という言葉に対してのやりとりにも感じるがそれはまた置いておく。)

病気で去っていった者は、別に病に破れたんじゃない。負けたんでもない。闘いをやめただけなんだよ。

【追記】本日Twitterで拙記事に対していくつか感想をいただいた。そのうち二つほどご紹介。転載許可を得てないので一部引用だけ。
その方の生命活動が終了した後、残された者が自分の気持ちに踏ん切りを付けるための心理状態であって、闘病している時は本人も、看病してる者もただただ必死なだけだと思う。
「祖父様を亡くされた時を思い出した」との最初のご感想に対しての「人の死を納得できるなんてそうそうないよね、いくら高齢だから天寿なんだと考えようとしても。そちらの方がむしろ自然だと思う。天寿だから、と考えてようやく周囲の人間の心が落ち着くのだ。」 という私のレスに応えて。
当事者の私は、この10年必死で闘った。泣き叫びながら、なりふり構わず!目の前のがんと闘うしかなかった。
僕も本人も、そう、なりふり構わず、でした。そして、病との直接対峙が無くなっても生きてる限り依然闘いは続きます。