2010年11月4日木曜日

生活目線でがんを語る会:放射線医療編 11/18

今月11/18、第二回目のがんの勉強会があります。

タイトル:「生活目線でがんを語る会 第2回 放射線治療の最新事情を知る」

  • 日程:2010/11/18 19時開場、19時30分開始、21時終了予定
  • 会場:六本木ミッドタウンタワー21F シスコシステムズ合同会社 セミナールーム
  • 内容:
    「放射線医療」の医師の方に登壇していただき「放射線医療」とは何か?等々のお話を伺います。その後、質疑応答を行ないます。但し、個別の医療相談には応じかねます。
「11/18に「生活目線でがんを語る会:放射線医療編」をやります。」
詳細、お申し込み方法については、リンク先をご覧下さい。

がん患者、がんサバイバー、がん遺族という様々な立場の方がお話しした前回と変わって、今回は現役の医師の方にお話を伺うという、また違った趣向となるようです。今回私はサポーターとして参加しようと思っています。Ustreamもまた行われるようですので、当日会場に来られない方も是非ご覧になってください。

なお第一回目のまとめはこちら。

2010年11月2日火曜日

笑って過ごすという事(後編)

→中編より

僕は、結局演芸会をみなかった。空を見上げて泣いているうちに、なんだか賑やかなあの場にいたたまれなくなった。誰にも言わずに自宅にもどり、夜まで休んでいた。夜はまた山車があったので、子供と一緒に参加した。祭りの仲間達は口々に、「来年は来てよ!」と言ってくれた。うん、そうしよう。ここに来れば、仲間に会える。Kさんだってまたいるにちがいない。

こうして、今年の祭りは盛況のうちに終わった。二日目が晴天だとずっと良かったみたいに思えるものである。


まつりから三週間過ぎた、金曜日の夜。先週のことである。中老の仲間から連絡メールを受け取った。

訃報だった。
お通夜と葬式の知らせだった。
名前を見た。
Kさん…?姓はそうでも名はそうだったっけ。
急いでお袋に確認した。

やはりそうだ。Kさんだった。

なんと言う事だ。それじゃ、お祭りの時元気そうに見えたのは?
相当無理していたにちがいない。
俺はKさんが生きていたことを喜んで泣いたが、息子のY君は、きっともう先が長くないことを知っていたんだ。だから、俺が泣いたことに感謝してくれたんだ。


週が明けて11月。昨日お通夜だった。
沢山の人が来ていた。
住まいは隣町だったが、僕の町の人間、それもお祭りの関係者がかなり占めていた。
60近いと勝手に思っていたが、実は僕より干支が一回り違うだけだった。
遺影として若い頃の写真が飾られていた。ほっそりとして上品な美人だった。
お祭りには、丸坊主でふっくらしてて、ちょっとした旅の一座の女座長という趣だったから、意外だった。

通夜は順調に執り行われた。ご住職は、この辺りに多い曹洞宗の方だった。
焼香、読経が終わり、住職の話も終わった。

普通ならここで親族を残し参列者が帰るところなのだが、今回は違った。
Kさんの遺言で、お祭りの太鼓を叩くことになったのだ。
祭り仲間の参列はそのためだった。

うちの町の太鼓が運び込まれ、法被を着た青年、中老が並んだ。息子のY君。その弟。二人で代わる代わる太鼓を叩いた。体ごとバチを叩きつけるかのように渾身の力で。他のメンバーもまた続いて叩いた。手を血に染めながら、二人の息子を中心にして僕の町の若者達が太鼓を叩いていた。

最後にY君の挨拶があった。太鼓の件、故人の遺言ではあったが、まさか実現できるとは思わなかったと。
冷静に考えるとそうである。如何に遺言とは言え、町のものである太鼓を持ち出し、仏式の葬式で神前に奉納するための太鼓を叩く。でも、それもこれも皆Kさんだからこそ出来たんだ。聞けば住職もKさんとは旧知の仲だったらしい。町のみんなだって、遺言と聞けば、かなえさせずにいられない。そんな人なんだ、Kさんは。

実は僕は、通夜の会場に向かう途中、涙が出てしょうがなかった。あの祭りの日のことを思うと、泣けてしょうがなかった。
でもね、通夜の席で、元気な太鼓を、祭り囃子を聴いたら、不思議と涙が出なくなったんだ。
なんだろう、これは。参列者を元気にさせてしまうお通夜?
これこそ、Kさんの望んでいたことじゃないのか?

後で聞いた話だが、あの祭りの間、無理を言って病院から許可をもらって来ていたらしいのだ。あの時足には点滴の針も刺さっていたとか。それでも会所の番をつとめ、壇上に上がり餅投げもしたという。

思えば、僕の妻のために相談に乗ってくれたとき。「もう抗がん剤なんてやめた」とか聞いたがあれはどこまで本当のことだったろう。もしかしたら、すでにかなり進行していて覚悟をしてた段階だったのかもしれない。真意はどうあれ、少なくとも僕の不安を解消するのには助けとなった。だが、一日を笑って過ごすと言っていたのは本当の事だと思う。それこそ毎日をお祭りのように、家族と明るくすごそうとしたのだと思う。

よく笑うことで免疫力を高めると言う話を聞く。これも本当の事だろう。場合によっては治癒に寄与するかも知れない。だが、それ以上に、本人、ひいては周囲も、豊かな生き方が出来る、そのことにこそ意義があるのだろうと思った。人は誰しもいつかは死ぬ。ならば面白おかしく笑って死にたいじゃん。そうとも言っていた。まさしくそうだと思う。そしてその生き方は最後まで貫かれた。いや、死してなお、と言うべきか。僕たちは、それをあの通夜の席で十分感じた…と思う。


会場を出る前に、Kさんの顔を見てきた。
ほんとうに、ついさっきまで笑っていたかのように、安らかな顔だった。

2010年11月1日月曜日

笑って過ごすという事(中編)

→前編より

去年のお祭りは喪中と言うこともあって、法被を着ずに子供の守に専念していた。喪が明けて今年。仲間に誘われては居たけども、やはり練習など参加する気にはなれなかったが、娘の笛デビューと言う事もあって、当日は法被に袖を通し出ることにした。

酷い土砂降りの中でのお祭り一日目を終え、演芸会のある二日目。前日の雨もウソのように晴れ渡っていた。午前中の山車が終わって、皆が演芸会の準備に会場に集まってきていた。僕も会所にいる仲間達の顔を見るために、二年ぶりに顔を出した。

Kさんがいた。

会所のテントの前の大きな豚汁とおでんの鍋。その前に座ってかいがいしく動いていた。
生きていてくれた。がんに負けず、生きていてくれたんだ。

すっと近くに立った僕に気付くと、立ち上がり手を取ってこう言ってくれた。
「大変だったねえ。辛かったねえ。」
この一言が引き金となって、またも僕の色々な想いが涙となって吹き出してきた。
お祭りの会場で、人目もはばからず、僕は泣いた。

言葉にならなかった。

「Kさんが生きててくれて良かった」という想いとかみさんへの想いがごっちゃになって、頭の中にあふれかえっていた。

「あんた、何を泣いてるの。お祭りだもの、楽しくしなきゃ」
笑いながら、Kさんは僕の肩を叩いた。「そうだね」と言いながらもまた涙をこぼした。そのまま涙を抑えられず、僕はその場を離れた。Kさんはニコニコして、また座った。本当にお祭りが楽しそうだった。

一人になりたくて、少し離れたところに立っていると、青年部の若者が寄ってきた。精悍な顔つきをしたY君という青年だ。
「お袋のために泣いてくれてありがとう」
そうだったんだ。いや恥ずかしながら、顔は知ってても、まさか親子とは思ってなかった。
少し様子を聞いてみた。病気の具合はどうなんだ?
「うん、まあ、あまり良くない」
そうなのか。端から見てるととても病人に見えないくらい、元気の良い姿なのに。でもとても楽しそう。きっと楽しみにしてたんだな。

空を見上げた。暑かった長い夏が終わり、ようやく秋らしい空がみえていた。
ふとかみさんの事を思った。
あいつも、今この空を見上げているんだろうか、と。

→後編へ続く