2009年5月13日水曜日

発病、そして病院へ

前回、前々回と少々かぶる内容になってしまいますが、流れを整理するために、書き留めてあったメモをもとに、4月半ばの出来事を時系列で追っていってみます。

2008.4.15(火)

食欲不信を感じていたので、近所のNクリニックで、娘の診察のついでに自分も診察を受ける。胃炎の疑いがあるといわれ、胃腸薬を処方される。

2008.4.18(金)

胃腸薬を飲んでも一向に食欲不信が改善されず。母に別の医者への診察を勧められるが、現在治療中だということで止めておく。

2008.4.20(日)

この胃炎はきっと日頃のストレスから来てるのだろう、と、”おかあさんのストレス解消”と称して、家族で浜北森林公園に出かける。自然な環境で遊べば、少しは気が晴れるかもしれない。
アスレチックは無理だったが、万葉の森の散策と鷲沢風穴の探検には、子供と一緒に参加できた。子供達も僕がずっとPTAやら仕事やらで忙しかったせいもあり、遊びに連れて行かなかったので、久々の外出に非常に喜んでいた。妻は風穴から出た後、少し疲れたと言って休んでいた。そんな妻を遠目に、子供達と遊んでいた。せっかく遊びに出たのに、やっぱり元気が無いな、と少し寂しく思った。

事実上、これが家族で遊びに出かけた最後のイベントとなった。

2008.4.22(火)

Nクリニックで再び診察。エコー検査をしてみる。その結果、湖西病院で見てもらった方が良いだろうという事に。紹介状を書いてもらう。

夜妻から話しを聞いたが、病名などがわからないので、わずかながらの不安を覚えただけにとどまる。内心、胃潰瘍あたりの覚悟はしていた。この時点で婦人科に掛かる事すら知らなかったのだ。

2008.4.23(水)

湖西病院でエコー検査。

たまたま外出先で妻からのメールを受け取る。

「卵巣腫瘍の疑いがあるって…」と書いてあった。

卵巣腫瘍?
腫れ物?

その程度の知識しかない僕は、会社へ戻るとすぐ「卵巣腫瘍」のキーワードで検索してみた。

All Aboutにて「卵巣腫瘍」に関する記事を発見。
卵巣にはさまざまな腫瘍ができますが、その中には大きく分けて、良性のことが多い「卵巣のう腫」悪性の事が多い「充実性腫瘍」があります。卵巣の腫瘍のうち約9割が「卵巣のう腫」で残りの1割が充実性腫瘍なのですね。
なんだ、ほとんどのケースが良性じゃないか。最悪卵巣の悪い部分を切れば大丈夫なんだろう。

そう思った僕は自宅に帰り、妻にその様に説明。腫れ物ったって出来ものの一種みたいなもの、とさほど深刻に受け止めていなかった。

2008.4.25(金)

引き続き湖西病院で検査。この日はMRIだった。この辺りから、体調はどんどん悪くなり、朝起き上がれないようになった。それに伴い、腹の膨らみも大きくなりつつあった。なんだ?これは。何が起っているのだ?

朝起きられない妻に代り、5時半に起きて、子供達の朝食を作るようにする。僕の昼食も、愛妻弁当ではなく、マクドナルドやコンビニの弁当になった。

夜、入浴前に脱衣所でひとり考え込んでいる妻を見つけ、話しかける。
「不安なのか?」
「うん…」
「大丈夫だよ、きっと。9割り方良性だって言うし。」
根拠も何も無く、ただそう言って慰めるしか無かった。

2008.4.26(土)

小学校で授業参観、そしてPTA総会があった。授業参観はもちろん、PTA総会にも出席する。総会は前年度役員としてだ。夜は、先生方との懇親会だった。病の妻を置いての飲み会出席は、少々引け目を感じたが、先生方との交流を深めておく事は何かの役に立つかもしれない、という打算も正直あった。夜遅く帰ったら妻はもう寝ていた。寝ているときはそんなに苦しそうに見えなかった。きっと大丈夫。

2008.4.28(月)

湖西病院に検査結果を聞きに行く日。すでにお腹はかなり大きくなって来ていた。会社を休み付き添う事にする。

待合室で待っていると、妻が沈んだ表情で診察室から出て来た。

「先生に卵巣がんの疑いがあるって言われた…。話があるそうだから一緒にきて…」

癌?まさか。でも癌って最近じゃかなり治るようになって来てるんだよな。言うほど心配な事ではないのかも。

妻に招かれて診察室に入ると初老の担当医がいらっしゃった。先生の口からも同じ主旨のことを聞かされる。

そして湖西病院では治療は出来ないので、浜松の医療センター宛に紹介状を書くそうだ。なんでも先生の元同僚で優秀な先生がいらっしゃるとのこと。ここでは診ることができない?そんな大変な病気なのか?

最後に「良性ではないんですか?」と聞いた僕に、先生は「良性じゃ腹水は溜まらん」とだけおっしゃって去って行った。そうなのだ。ネットで良性と悪性の違いを調べた時、一つだけ気になっていたのはそれだった。だが僕は「ポジティブに考えよう」と、そのことには目をつぶっていた。

予約は5/2だった。




自宅に帰り、母、そして父に伝えた。父とは実に三年ぶりの会話だった。当日のミクシィ日記から拾ってみる。
3年ぶりにオヤジと口をきいた。

昭和一桁うまれ、建具職人一徹55年のクソ頑固なオヤジと喧嘩して3年。
同居してても一切口をきかなかった。
こちらも意地っ張りなとこだけはオヤジ譲り。
このまま死ぬまで口をきかんだろうと考えていたが…。

おれのつまらん意地もちんけなプライドもどうでもいい状況なので、頭を下げた。
そうなのだ。ことこうなったからには、子供達の事もある。全面的に協力を仰がなければならない。

妻は最初気丈に父に話していたが、とても最後まで続かず、泣き出し始めた。僕は肩を抱き寄せ、ただただ「大丈夫だよ」と言い聞かせるしか無かった。

2008.4.29(火)

父に伝えたとき、たまたま義兄が来ていたので、すぐに実姉にも伝わっていた。心配して訪れた姉は「不安を抱えたまま予約の日まで一週間過ごすのは酷だよ。今すぐ豊橋の市民病院にでも行ってみたら?」と勧めてくれた。

僕は二つの理由で断った。

まず、すでにNクリニック、湖西病院、浜松医療センターとなんだかたらい回しにされた感があったこと。どこに行っても検査検査。すぐには治療は始まらない。今から新しい病院に行っても、同じ事だろう。紹介状が無い分、下手すりゃさらに治療が遅れるだろう。

もう一つ。医療に関しては、浜松の方が数段上だろうという考えもあった。後にこれは誤解であった事を知る。後日詳細を書くが、浜松の医療レベルは確かに高いのは間違いないが、豊橋市民病院の婦人科も実は評価が高かったのだ。

ともあれ、会社を休み続けるわけにはいかないので、この日は妻を残して出社した。

2008.5.1(木)

腹の膨らみはますます増していた。すでに妊婦の様に腹が膨らんでいた。妊婦の場合、数ヶ月掛けてあの大きさになるのだが、腹水の場合、わずか二週間ほどで急激に増えるのだから溜まらない。食事の方も、すでに二週間ほとんど摂っていなかった。それでいて腹水のために体重は増えているようだった。

翌日に検査を控えたこの日の朝。子供達を学校に送り出し、出社前に妻の様子を見に行く。この日もとても辛そうだった。何より日に日に大きくなる腹を抱え、部屋の中で一人で不安でいるに違いない。これはなんとかしなくては。

妻の姿を見てそう思った僕は、すぐさま会社に電話して休ませてもらうようにした。まだ診察開始前だったが、すぐにでも入院できるよう荷物を車に乗せ、妻を連れて湖西病院に向かった。受付で担当の医師にアポをとり、なんとか予約の日を前倒ししてもらえる様頼み込んだ。妻の辛そうな表情を診た先生は、事情を察し、手早く手続きを済ませてくれた。看護士から医療センターの場所と受付手順を聞き、その足で浜松へ向かう。

途中、妻の実家にケータイから電話した。いくらなんでも、もう両親に知らせておかなければならない。これまで妻は心配させることを畏れ何も話してなかったのだ。妻が義母と会話しているうちに、車は佐鳴台を通り、左手に医療センターが見えて来た。僕にとっては懐かしい。昔は仕事でこの辺りをよく通ったが、まさかここに家族を入院させることになろうとは。

とは言え、患者(の付き添い)として初めて来た大病院。さっぱり勝手が分からなかった。玄関前は非常に混雑していたので駐車場に向かう。第一、第二、第三と三つある駐車場はどれも車でいっぱい。一番遠い第三にかろうじて駐車することができた。妻はもう歩く事すら大変なのだが、仕方ない(後にこういう場合は玄関で降ろせば良かった事を知る)。かばいながらゆっくりと向かう。

受付では、話が通じていてすぐに手続きを済ませてもらえた。事務員の指示通り二階の産婦人科へ向かう。ここもまた非常に混雑していた。お腹の大きな妊婦から、子供連れの外国人一家まで。年配の女性もいる。およそ数十組の患者が順番待ちしていた。10時過ぎに着いたのだが、予約無しの初診だったのでずいぶん待たされてやきもきした。12時を過ぎようとした頃、ようやく順番が回って来た。

2009年5月9日土曜日

5月11日 その1

前回から少し間が空いてしまいました。

mixiや本ブログのFeedを配信しているSNSのTwitter、SMART経由で励ましの声をいただきました。特にMODIPHI(SMART運営母体)の代表である小川さんからのお声は思ってもみない事だったので驚くとともにとてもありがたく思いました。さすがブログというメディアの本質を良くご存知の小川さん、「ライフログ」という的確な表現をしてくださいました。そう、私はこのブログは妻の生きた証としても機能してほしいと願っています。

しかし、前回書いてみて思ったのですが、闘病記なんて言うのは、なかなか既述に労力の居る作業ですね(苦笑)。特に精神的には、趣味や仕事のブログと違って、かなりキます。それでも、私の得た知識が風化してしまわないうちに、出来るだけ早いうちに形にしていきたいと思います。


さて。
5月11日が近づいて参りました。この日は何を隠そう、私と妻の結婚記念日なのです。今日はなれそめ等プライベートにまつわる事も書いてみたいと思います。これからの話を理解していただくのに、必要かと思うからです。少し恥ずかしいですけどね。

私と妻は、豊橋市内の造園会社で出会いました。私はそれまで勤めていた外構工事専門会社の設計職を辞め、現場の技術を身につけたいと、現場監督として造園会社に身を投じました。一方妻は、簿記の専門学校を出て、経理職をめざして新卒で入社しました。ところがどういう訳か、他に簿記の資格者が居ないにもかかわらず、現場作業員に配置されました。私と妻は、中途採用と新卒でありながら、入社時期が近かったため、一緒に研修を受ける事になりました。

初めて彼女の事を意識したのは、今でも覚えていますが、その研修のときです。当時の彼女は田舎のあか抜けない少女そのもので、表情に愛嬌こそありますが、お世辞にも美人とは言えませんでしたし、私も当初特に好意を抱いてはいなかったのですが、研修の合間、前の席に座った彼女が、ふと振り返ってこちらを見たとき、「ああ、この娘とは何かあるな」と思いました。未だに理由は判らないのですが、その後の運命を予感させるものがあったのかもしれません。ただそれは不吉なものではありませんでした。

その後、現場で作業監督、チームリーダーとして働く私は、彼女の勤勉な仕事態度、特に本来目指していた仕事ではなかったにもかかわらず、腐ったりせず、職場を明るくする彼女の才能を認めるようになりました。彼女の方も、プライベートではともかく、業務において頼りになる男性とでも目に写っていたのでしょうか、少なからず好意を抱いていた様です。(後に家庭において無能だという事を思い知る様ですがそれはまた別の話)

結局知り合って一年ほどしてつき合い始め、半年ほどで婚約、さらに半年後結婚しました。それが5月11日でした。その日にしたのは、遠方の親戚や職場の仲間に出席してもらうのにちょうど良い土曜日だったから、という理由だったように思います。次の日が日曜だと何かと都合がいいですしね。私が27歳、妻が22歳の年でした。

結婚式は、豊橋市内のホテルで滞り無く行われました。私の方は、披露宴は家族、親族のためにやるもんだ、とばかり、友人と企画していた二次会の準備に余念がありませんでした。二次会では、高校、大学時代の音楽仲間と久しぶりに急ごしらえのバンドを組み、ライブ形式のパーティを行いました。またふざけて白いモジモジ君スーツを着込み、参加者に全身に寄せ書きしてもらったりしていました。職場での私とのあまりにも大きなギャップに、新妻となった彼女はかなり面食らっていたようでした。後になってよく「ああ、だまされたわ…。あの時(結婚を)止めときゃ良かった」とぼやいていました(笑)。

新居はいきなり私の両親との同居でした。今になってみると、少し無理をしてでも、数年は別居してからにしても良かったかもしれません。覚悟していたとはいえ、生まれ育った家を離れて、いきなりの新生活、かなりのストレスだったようです。私はといえば、他人の思惑への無頓着な気質が災いして、彼女のメンタル面のケアなど思いもよりませんでした。時折無神経な発言をしては、彼女を知らずに傷つけていたようです。

結婚して一年後、長男を出産。そしてすぐに次男を妊娠。同居のストレスを抱え、育児家事に忙しい最中、私は妻の苦労も省みず、いきなり会社を辞める事を宣言しました。肉体的にハードである造園の監督兼作業員の仕事に見切りを付け、デスクワークに近い仕事につこうと思ったのです。体を使う仕事を一生続けるのにも不安がありました。特にその前の年、剪定作業中にぎっくり腰を患ったのがショックでもありました。出来れば以前やっていたCADや設計の仕事につきたいと願いました。

妻は何も文句を言いませんでした。退職後受験した資格試験の勉強期間、兄のツテを頼った設計会社には断られ、職安にまともな求人も無く、結局飛び込みで現在勤めている外構会社に落ち着くまでの3ヶ月の間、家計を切り詰め、何かと心配する私の両親にもうまく取り繕ってくれていました。

新しい会社は小さいけれども、新人である私に業務の大幅な裁量を与えてくれ、やりがいのある職場でした。次男も無事生まれ、その後さらに、三人目の子となる長女にも恵まれました。

子供達は成長して、やがて小学生となりました。その間、たまたまくじ引きがあたり、幼稚園のPTA副会長、会長職を受ける事になったり、その流れで小学校のPTA副会長を引き受ける事になったりしました。おかげでただでさえ休日の少ない私は、時折日曜日出勤したりしながら、学校の業務に出たりしました。子供が小さい頃は、家族で一泊旅行に出かけていたのですが、それも出来なくなりました。

私の両親とも幾度か衝突がありました。両親というより、昭和一桁生まれ、建具職人50年一筋の頑固一徹を絵に書いたような、私の父との衝突です。父は父なりに考えての行動だったのでしょうが、私たちとは40歳近く違う世代、生活習慣、意見の相違も顕著でした。

4年ほど前の衝突では、妻よりも私の方が切れ、家を出る事も考えました。しかし結局子供の事を考えると引っ越しも出来ず、そのまま一緒に住まうことにしました。妻は持ち前の快活さと気持ちの切り替えの良さで、その後また両親ともうまくやってました。私の方は、父親譲りの頑固さもあって(苦笑)、それ以来父とは会話を交わす事はなくなりました。同居していながら、ずっと父と私の冷戦状態が続いていたのです。

少し話題を戻して、昨年1月頃の話です。小学校のPTA副会長を終え、次年度はPTA会長職を期待されていましたが、地域の子ども会会長に専念したいとの理由で断りました。地元の祭りの事で、自治会や青年団との折衝など、端から見ていて問題点が山積みだったため、改革したいと考えていたからです。それに、もうそろそろ家族のための時間をとりたいと考えていました。旅行も行けないし、長男も直に中学生。そうなると部活も始まって家族そろっての旅行も難しくなります。子ども会ならば、日曜日の行事も多いし、夫婦で協力してできるため、PTAよりマシ、という計算もありました。今の学校行事は、週休土日二日の役所や企業向けにちょうど良く出来ているんです。

というわけで、長男が6年生になる前年度の終わり、次期子供会会長に決まりました。私は、当初会合から何から自分が主になって進めるつもりでしたが、妻が積極的に動きました。もともと有能な才能の持ち主でしたし、物怖じせず、何より子供達を巡る環境を良くしたい、という意欲も持っていました。

子ども会自体も、昔と違い、お母さん方が主力になってやっている感じでした。そんなところに私がノコノコ出て行っても、話をまとめるのは大変だったと思います。結局子ども会内のことは妻、書類作成や渉外は私、と役割分担が自然に決まりました。

子供達は進級して、長男が6年生、二男が4年生、そして下の娘が2年生になりました。子ども会の会合も増え、私も書類や名簿作成をして忙しくなりだしました。それが一年と一ヶ月前、昨年4月の話です。

長々とのろけだか苦労話だか、なんだか判らない様な話を書いてきましたが、要は、私たちはどこにでもいる様な、当たり前の夫婦、当たり前の家族だった、ということです。夫婦のなれそめも、親との同居も、育児も、程度の差こそあれ、他の多くの方達と同じように幸せを感じ、悩み、一所懸命励んでいました。本当に、どこにでもいる夫婦でしかなかったのです。先行きに不安が無いわけではありませんでしたが、私も家族をずっと養って行く自信がありましたし、今後も順調だと信じて疑いませんでした。両親との確執も時間が解決して行くでしょう。まずは大変だけど、二人で協力して子ども会の事をしっかりやらなければ。そう思ってました。

そんな時、妻の体調に変化が起こりました。食欲が減り、会合でも食事に手を付けず帰ってきました。その少し前から、だるさは感じていた様でした。子供の参観会も、自転車をやめ、自動車で向かいました。それでも下腹部が少し膨らんでいたのを「太ったのかなあ」とぼやいている程度でした。

丁度娘が足の裏に出来たイボのことで、近所の内科に通院していたので、一緒に食欲不信を相談してみた所、胃炎かも知れない、とのことで、胃薬をもらってきて飲んでいました。それでも一向に食欲も出ず、お腹の膨らみもわずかですが大きくなってきました。母や姉が心配して「他の病院でも診察を受けてみたら?」と言いましたが、私も妻も安易にあちこち診察を受けるのを好しと思わなかったので、そのまま経過を見る事にしました。

2009年5月1日金曜日

はじめに:一年前…

私の妻は、昨年12月1日、35歳の若さで、この世から旅立ちました。

卵巣がんでした。



あれから5ヶ月。私と残された三人の子供たちの日々の生活は、家族や親戚など周囲の助けもあり、落ち着きを取り戻しつつあります。それでも…この時期になると、一年前を思い起こし、心に痛みを覚えずにはいられません。

そう、ちょうど一年前の5月1日。妻は、浜松市の医療センターに緊急入院する事になったのです。



少し時間を遡ります。

その三週間ほど前の4月上旬より食欲を無くしはじめ、体調の不良を感じだした妻は、近所の内科医の診察を経て、地元の病院で検査を受けました。

検査の理由は「卵巣腫瘍の疑いがある」ということでした。

そのときの私は、今考えれば無知もいいところでした。腫瘍といえば、腫れ物の類いだと思っていて、最悪切除すれば良い、程度にしか考えていませんでした。

ところがその日を境にして見る見ると腹はふくれあがり、妻の苦痛は増していくばかり。

そして…検査結果を地元病院の医師から告げられました。「卵巣腫瘍、すなわち卵巣がん」であると。

「がん」と言われれば、無知な私でもさすがに慌てない訳には行きません。

地元の病院では治療は無理、ということだったので、浜松の大きな病院を紹介してもらいました。予約は5月2日でした。

予約までの数日間、私はGWの連休を控えて仕事を休めなかったため、子供達が学校に言っている間、妻は一人不安に苛まれながら、横になっているしかありませんでした。しかし、お腹に溜まっているという水は日に日に増えるばかり。まるで妊婦かと見まがうほどになりました。体を横たえているのも辛そうな妻の姿を見て、翌日に予約を控えた5月1日、予定を繰り上げてもらい、医療センターで診察してもらう事にしました。

この日から、妻と私、そして子供達、家族の、癌との戦いが始まったのでした。





このブログでは、妻の闘病210日間を描き、私たち家族の運命への抗い、苦悩の姿を描き、私から、いずれ大きくなる子供達に真実を伝えることを目的としています。

それと同時に、同じ悩みを抱えている人たち、現在健康な生活を送っていて、それが当たり前であると思っている多くの人たちに、知らしめたい事があります。それは、私たちの癌と言う病気への対処法、情報の得方であったり、今ある生活のありがたさ、幸せの重さなどです。

もちろん人それぞれ受け取り方は違うでしょうし、全てが伝わるとは思っていません。でも、何か参考になる事があるのなら、何か感じていただける事があるのなら、幸いだと思っています。ご意見ご感想等あれば、コメントにてお寄せください。

なお、当方、医療に関してはずぶの素人でもありますので、情報を受け取る方も、その点予めご了承ください。誤謬等のご指摘も歓迎します。最新の知見は、きちんとした医療機関より入手されることをお勧めします。

また今後の記事は特に更新日を決めず、不定期掲載といたします。記事では個人を特定させる情報を掲載しない様配慮いたしますが、団体名については明記したいと思っています。