2010年11月2日火曜日

笑って過ごすという事(後編)

→中編より

僕は、結局演芸会をみなかった。空を見上げて泣いているうちに、なんだか賑やかなあの場にいたたまれなくなった。誰にも言わずに自宅にもどり、夜まで休んでいた。夜はまた山車があったので、子供と一緒に参加した。祭りの仲間達は口々に、「来年は来てよ!」と言ってくれた。うん、そうしよう。ここに来れば、仲間に会える。Kさんだってまたいるにちがいない。

こうして、今年の祭りは盛況のうちに終わった。二日目が晴天だとずっと良かったみたいに思えるものである。


まつりから三週間過ぎた、金曜日の夜。先週のことである。中老の仲間から連絡メールを受け取った。

訃報だった。
お通夜と葬式の知らせだった。
名前を見た。
Kさん…?姓はそうでも名はそうだったっけ。
急いでお袋に確認した。

やはりそうだ。Kさんだった。

なんと言う事だ。それじゃ、お祭りの時元気そうに見えたのは?
相当無理していたにちがいない。
俺はKさんが生きていたことを喜んで泣いたが、息子のY君は、きっともう先が長くないことを知っていたんだ。だから、俺が泣いたことに感謝してくれたんだ。


週が明けて11月。昨日お通夜だった。
沢山の人が来ていた。
住まいは隣町だったが、僕の町の人間、それもお祭りの関係者がかなり占めていた。
60近いと勝手に思っていたが、実は僕より干支が一回り違うだけだった。
遺影として若い頃の写真が飾られていた。ほっそりとして上品な美人だった。
お祭りには、丸坊主でふっくらしてて、ちょっとした旅の一座の女座長という趣だったから、意外だった。

通夜は順調に執り行われた。ご住職は、この辺りに多い曹洞宗の方だった。
焼香、読経が終わり、住職の話も終わった。

普通ならここで親族を残し参列者が帰るところなのだが、今回は違った。
Kさんの遺言で、お祭りの太鼓を叩くことになったのだ。
祭り仲間の参列はそのためだった。

うちの町の太鼓が運び込まれ、法被を着た青年、中老が並んだ。息子のY君。その弟。二人で代わる代わる太鼓を叩いた。体ごとバチを叩きつけるかのように渾身の力で。他のメンバーもまた続いて叩いた。手を血に染めながら、二人の息子を中心にして僕の町の若者達が太鼓を叩いていた。

最後にY君の挨拶があった。太鼓の件、故人の遺言ではあったが、まさか実現できるとは思わなかったと。
冷静に考えるとそうである。如何に遺言とは言え、町のものである太鼓を持ち出し、仏式の葬式で神前に奉納するための太鼓を叩く。でも、それもこれも皆Kさんだからこそ出来たんだ。聞けば住職もKさんとは旧知の仲だったらしい。町のみんなだって、遺言と聞けば、かなえさせずにいられない。そんな人なんだ、Kさんは。

実は僕は、通夜の会場に向かう途中、涙が出てしょうがなかった。あの祭りの日のことを思うと、泣けてしょうがなかった。
でもね、通夜の席で、元気な太鼓を、祭り囃子を聴いたら、不思議と涙が出なくなったんだ。
なんだろう、これは。参列者を元気にさせてしまうお通夜?
これこそ、Kさんの望んでいたことじゃないのか?

後で聞いた話だが、あの祭りの間、無理を言って病院から許可をもらって来ていたらしいのだ。あの時足には点滴の針も刺さっていたとか。それでも会所の番をつとめ、壇上に上がり餅投げもしたという。

思えば、僕の妻のために相談に乗ってくれたとき。「もう抗がん剤なんてやめた」とか聞いたがあれはどこまで本当のことだったろう。もしかしたら、すでにかなり進行していて覚悟をしてた段階だったのかもしれない。真意はどうあれ、少なくとも僕の不安を解消するのには助けとなった。だが、一日を笑って過ごすと言っていたのは本当の事だと思う。それこそ毎日をお祭りのように、家族と明るくすごそうとしたのだと思う。

よく笑うことで免疫力を高めると言う話を聞く。これも本当の事だろう。場合によっては治癒に寄与するかも知れない。だが、それ以上に、本人、ひいては周囲も、豊かな生き方が出来る、そのことにこそ意義があるのだろうと思った。人は誰しもいつかは死ぬ。ならば面白おかしく笑って死にたいじゃん。そうとも言っていた。まさしくそうだと思う。そしてその生き方は最後まで貫かれた。いや、死してなお、と言うべきか。僕たちは、それをあの通夜の席で十分感じた…と思う。


会場を出る前に、Kさんの顔を見てきた。
ほんとうに、ついさっきまで笑っていたかのように、安らかな顔だった。

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