2009年5月9日土曜日

5月11日 その1

前回から少し間が空いてしまいました。

mixiや本ブログのFeedを配信しているSNSのTwitter、SMART経由で励ましの声をいただきました。特にMODIPHI(SMART運営母体)の代表である小川さんからのお声は思ってもみない事だったので驚くとともにとてもありがたく思いました。さすがブログというメディアの本質を良くご存知の小川さん、「ライフログ」という的確な表現をしてくださいました。そう、私はこのブログは妻の生きた証としても機能してほしいと願っています。

しかし、前回書いてみて思ったのですが、闘病記なんて言うのは、なかなか既述に労力の居る作業ですね(苦笑)。特に精神的には、趣味や仕事のブログと違って、かなりキます。それでも、私の得た知識が風化してしまわないうちに、出来るだけ早いうちに形にしていきたいと思います。


さて。
5月11日が近づいて参りました。この日は何を隠そう、私と妻の結婚記念日なのです。今日はなれそめ等プライベートにまつわる事も書いてみたいと思います。これからの話を理解していただくのに、必要かと思うからです。少し恥ずかしいですけどね。

私と妻は、豊橋市内の造園会社で出会いました。私はそれまで勤めていた外構工事専門会社の設計職を辞め、現場の技術を身につけたいと、現場監督として造園会社に身を投じました。一方妻は、簿記の専門学校を出て、経理職をめざして新卒で入社しました。ところがどういう訳か、他に簿記の資格者が居ないにもかかわらず、現場作業員に配置されました。私と妻は、中途採用と新卒でありながら、入社時期が近かったため、一緒に研修を受ける事になりました。

初めて彼女の事を意識したのは、今でも覚えていますが、その研修のときです。当時の彼女は田舎のあか抜けない少女そのもので、表情に愛嬌こそありますが、お世辞にも美人とは言えませんでしたし、私も当初特に好意を抱いてはいなかったのですが、研修の合間、前の席に座った彼女が、ふと振り返ってこちらを見たとき、「ああ、この娘とは何かあるな」と思いました。未だに理由は判らないのですが、その後の運命を予感させるものがあったのかもしれません。ただそれは不吉なものではありませんでした。

その後、現場で作業監督、チームリーダーとして働く私は、彼女の勤勉な仕事態度、特に本来目指していた仕事ではなかったにもかかわらず、腐ったりせず、職場を明るくする彼女の才能を認めるようになりました。彼女の方も、プライベートではともかく、業務において頼りになる男性とでも目に写っていたのでしょうか、少なからず好意を抱いていた様です。(後に家庭において無能だという事を思い知る様ですがそれはまた別の話)

結局知り合って一年ほどしてつき合い始め、半年ほどで婚約、さらに半年後結婚しました。それが5月11日でした。その日にしたのは、遠方の親戚や職場の仲間に出席してもらうのにちょうど良い土曜日だったから、という理由だったように思います。次の日が日曜だと何かと都合がいいですしね。私が27歳、妻が22歳の年でした。

結婚式は、豊橋市内のホテルで滞り無く行われました。私の方は、披露宴は家族、親族のためにやるもんだ、とばかり、友人と企画していた二次会の準備に余念がありませんでした。二次会では、高校、大学時代の音楽仲間と久しぶりに急ごしらえのバンドを組み、ライブ形式のパーティを行いました。またふざけて白いモジモジ君スーツを着込み、参加者に全身に寄せ書きしてもらったりしていました。職場での私とのあまりにも大きなギャップに、新妻となった彼女はかなり面食らっていたようでした。後になってよく「ああ、だまされたわ…。あの時(結婚を)止めときゃ良かった」とぼやいていました(笑)。

新居はいきなり私の両親との同居でした。今になってみると、少し無理をしてでも、数年は別居してからにしても良かったかもしれません。覚悟していたとはいえ、生まれ育った家を離れて、いきなりの新生活、かなりのストレスだったようです。私はといえば、他人の思惑への無頓着な気質が災いして、彼女のメンタル面のケアなど思いもよりませんでした。時折無神経な発言をしては、彼女を知らずに傷つけていたようです。

結婚して一年後、長男を出産。そしてすぐに次男を妊娠。同居のストレスを抱え、育児家事に忙しい最中、私は妻の苦労も省みず、いきなり会社を辞める事を宣言しました。肉体的にハードである造園の監督兼作業員の仕事に見切りを付け、デスクワークに近い仕事につこうと思ったのです。体を使う仕事を一生続けるのにも不安がありました。特にその前の年、剪定作業中にぎっくり腰を患ったのがショックでもありました。出来れば以前やっていたCADや設計の仕事につきたいと願いました。

妻は何も文句を言いませんでした。退職後受験した資格試験の勉強期間、兄のツテを頼った設計会社には断られ、職安にまともな求人も無く、結局飛び込みで現在勤めている外構会社に落ち着くまでの3ヶ月の間、家計を切り詰め、何かと心配する私の両親にもうまく取り繕ってくれていました。

新しい会社は小さいけれども、新人である私に業務の大幅な裁量を与えてくれ、やりがいのある職場でした。次男も無事生まれ、その後さらに、三人目の子となる長女にも恵まれました。

子供達は成長して、やがて小学生となりました。その間、たまたまくじ引きがあたり、幼稚園のPTA副会長、会長職を受ける事になったり、その流れで小学校のPTA副会長を引き受ける事になったりしました。おかげでただでさえ休日の少ない私は、時折日曜日出勤したりしながら、学校の業務に出たりしました。子供が小さい頃は、家族で一泊旅行に出かけていたのですが、それも出来なくなりました。

私の両親とも幾度か衝突がありました。両親というより、昭和一桁生まれ、建具職人50年一筋の頑固一徹を絵に書いたような、私の父との衝突です。父は父なりに考えての行動だったのでしょうが、私たちとは40歳近く違う世代、生活習慣、意見の相違も顕著でした。

4年ほど前の衝突では、妻よりも私の方が切れ、家を出る事も考えました。しかし結局子供の事を考えると引っ越しも出来ず、そのまま一緒に住まうことにしました。妻は持ち前の快活さと気持ちの切り替えの良さで、その後また両親ともうまくやってました。私の方は、父親譲りの頑固さもあって(苦笑)、それ以来父とは会話を交わす事はなくなりました。同居していながら、ずっと父と私の冷戦状態が続いていたのです。

少し話題を戻して、昨年1月頃の話です。小学校のPTA副会長を終え、次年度はPTA会長職を期待されていましたが、地域の子ども会会長に専念したいとの理由で断りました。地元の祭りの事で、自治会や青年団との折衝など、端から見ていて問題点が山積みだったため、改革したいと考えていたからです。それに、もうそろそろ家族のための時間をとりたいと考えていました。旅行も行けないし、長男も直に中学生。そうなると部活も始まって家族そろっての旅行も難しくなります。子ども会ならば、日曜日の行事も多いし、夫婦で協力してできるため、PTAよりマシ、という計算もありました。今の学校行事は、週休土日二日の役所や企業向けにちょうど良く出来ているんです。

というわけで、長男が6年生になる前年度の終わり、次期子供会会長に決まりました。私は、当初会合から何から自分が主になって進めるつもりでしたが、妻が積極的に動きました。もともと有能な才能の持ち主でしたし、物怖じせず、何より子供達を巡る環境を良くしたい、という意欲も持っていました。

子ども会自体も、昔と違い、お母さん方が主力になってやっている感じでした。そんなところに私がノコノコ出て行っても、話をまとめるのは大変だったと思います。結局子ども会内のことは妻、書類作成や渉外は私、と役割分担が自然に決まりました。

子供達は進級して、長男が6年生、二男が4年生、そして下の娘が2年生になりました。子ども会の会合も増え、私も書類や名簿作成をして忙しくなりだしました。それが一年と一ヶ月前、昨年4月の話です。

長々とのろけだか苦労話だか、なんだか判らない様な話を書いてきましたが、要は、私たちはどこにでもいる様な、当たり前の夫婦、当たり前の家族だった、ということです。夫婦のなれそめも、親との同居も、育児も、程度の差こそあれ、他の多くの方達と同じように幸せを感じ、悩み、一所懸命励んでいました。本当に、どこにでもいる夫婦でしかなかったのです。先行きに不安が無いわけではありませんでしたが、私も家族をずっと養って行く自信がありましたし、今後も順調だと信じて疑いませんでした。両親との確執も時間が解決して行くでしょう。まずは大変だけど、二人で協力して子ども会の事をしっかりやらなければ。そう思ってました。

そんな時、妻の体調に変化が起こりました。食欲が減り、会合でも食事に手を付けず帰ってきました。その少し前から、だるさは感じていた様でした。子供の参観会も、自転車をやめ、自動車で向かいました。それでも下腹部が少し膨らんでいたのを「太ったのかなあ」とぼやいている程度でした。

丁度娘が足の裏に出来たイボのことで、近所の内科に通院していたので、一緒に食欲不信を相談してみた所、胃炎かも知れない、とのことで、胃薬をもらってきて飲んでいました。それでも一向に食欲も出ず、お腹の膨らみもわずかですが大きくなってきました。母や姉が心配して「他の病院でも診察を受けてみたら?」と言いましたが、私も妻も安易にあちこち診察を受けるのを好しと思わなかったので、そのまま経過を見る事にしました。

0 件のコメント:

コメントを投稿