2010年10月30日土曜日

笑って過ごすという事(前編)

Kさんを初めて見たのは、もう5~6年も前の地元のお祭りのときだった。
子供の山車の上に乗って、太鼓を叩く子供達を一所懸命煽っていた。
その時は、「元気のいい、賑やかなおばちゃんだな」としか思わなかった。
小柄で丸っこい、人懐こい顔をしたおばちゃんだった。60前後に見えた。

翌年もそのおばちゃんはお祭りにきていた。何故か頭を丸坊主にしていた。周りの人に聞くと、乳がんを患ってしまい、抗がん剤の治療を受けているらしい。その時も、まだがんについて何の知識もなかったので、「へぇ。抗がん剤って髪が抜けちゃうって聞いてたけどそうなんだ。にしてもあんなに元気にしてられるんだな。」と思っていた。

翌年のお祭りの時、母の口からKさんの名前が出た。その時初めてKさんと我が家の縁を知った。なんでもKさんのお兄さんが四十年も昔うちの工場で働いていた事があるらしい。さらに、現在Kさんの息子さんは、なんと僕の姉の職場にいたのだった。ついでに言うと、もう一人の息子さんも、我が町の中老会に参加していた。息子さんとは何度か話をした事がある。この事を知ったのはもっとずっと後の事だったけども。

素性がわかると親近感を抱くものである。翌年のお祭りの時に話しかけて見た。Kさんはうちの事を良く知っていた。「あんたのお父さん、お母さんは恩人だよ」とまで言われた。僕の生まれる前の出来事で、なんだかこそばゆかった。がんについては特に話をしなかったが、雰囲気からすると、だいぶ良くなったようだった。少なくとも病人には見えなかった。むしろ威勢の良いのは相変わらずだった。

…そして、二年半前の僕の妻の発病。

話の流れが現在書き綴っている闘病記のちょっと後の出来事になるが…。

5月下旬に行われた地元のお祭りの会合。僕はまだ子供会の会長として頑張るつもりでいた。新役員と祭りの会のメンバーとの顔合わせの意味もあったので、ほかの役員さんと会合に参加した。会合と言っても飲み会である。ただ僕はその後子供を風呂に入れたりしなければならなかったので、お酒は飲まないようにしていた。

会が始まってすぐに、その場にいた前自治会長に部屋の隅に引っ張って連れていかれた。狭い町である。この人も僕を子供の頃から知っている。そして妻の病気の事も知っていた。連れていかれた先には、Kさんがいた。

Kさんは、僕の手を取り、涙をぽろぽろとこぼした。
「ねえ、聞いたよ、奥さんの事。辛いねえ。でもあんた頑張りなさいよ。負けちゃだめだよ。」
「私なんてね、もう抗がん剤なんて辛いからやめちゃったの。だけどね、家で暗くなって閉じこもってるのなんて性に合わないから、毎日TV見たり落語聞いたりして、アハハと笑って過ごすようにしてるんだよ。」
「笑っていればがんなんて吹き飛んじゃうんだよ。塞ぎ込んでいたりしたらだめだよ。ニッコリ笑っていなきゃ」
僕も涙が吹き出してきていた。手を握り返し、「ありがとう」と言う他はなかった。
前自治会長は、Kさんとかみさんと話をさせたいと思っていた。Kさんもそれが良い、是非話をしたいと言ってくれた。

ちょうどその頃「希望のがん治療」と言う本を読んでいた僕は、がんサバイバーという言葉を知ったばかりだった。本の内容についての論評は今ここではまず置くが、本の中で書かれていた、「がんサバイバーの話を聞く」と言うのは確かに治療中の患者にとって励みになると思えた。僕にとっても願っても無い申し出だ。それこそこちらからお願いしたい事だった。

帰り際、Kさんは、「話をしたくなったらいつでも電話ちょうだい」と言って携帯電話の番号を教えてくれた。


しばらくして、かみさんが一時帰宅できる事になった。話を聞くならこの機会を置いてないだろう。かみさんにKさんの事を話して見た。是非話を聞いて見たら?

だが、かみさんは頑なだった。同じ闘病中の人となら話はできるが、治ってしまった人の話は聞きたくないのだと言う。何度か話を持ちかけてみてもだめだった。今となってはどの様な心の動きによってその様な気持ちに至ったのか知る由もない。なんとなく想像できない事もないのだが、それがあっているのかもわからない。

ともかく、Kさんとかみさんは、ついぞ会う事がなかったのだった。

中編へ続く

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